奥津城跡

奥津城(要害城)は、正嘉二年(1258年)、置津郷の領主佐久間重吉とその嫡男佐久間重貞によって築かれた山城です。

佐久間氏はもともと安房国平郡狭隈郷(千葉県鋸南町上佐久間~下佐久間)を本拠地としていました。しかし、鎌倉幕府の御家人である佐久間家盛が承久の乱(1221年)で武功を挙げたことにより、上総国伊保庄置津郷(千葉県勝浦市興津・守谷・浜行川・大沢・鵜原・台宿・植野・上植野・上野・大森・名木・中島・中里・赤羽根など)と尾張国愛知郡御器所(愛知県名古屋市昭和区御器所)を賜りました。

この所領の拡大を受け、佐久間家盛の嫡男佐久間重吉は、新たな拠点として奥津城を築きました。奥津城は、地域支配の要となる山城として機能し、佐久間氏の本拠地となりました。

奥津城の廃城とその後

しかし、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐を経て徳川家康が関東一帯を治めることになり、奥津城はその役割を終え、自然と廃城となりました。その後も、佐久間氏の子孫によって要害山(奥津城跡)の管理は続けられていましたが、戦後の農地改革により所有者が変わる事となりました。

奥津城跡の現在

奥津城があった要害山は、興津近辺で最も標高の高い山であり、かつては戦略的な防御拠点として機能していました。戦国時代には、この高台から周囲を見渡し、海を監視する事で外敵の侵攻に備えていたと考えられます。現在も天気の良い日には、かつての「物見台跡」から太平洋を一望する事が出来ます。お城の歴史を感じながら、戦国時代の息吹を味わうことができる貴重な場所となっています。

観光情報詳細

住所〒299-5245
千葉県勝浦市興津字要害806
交通案内千葉県勝浦市上野の上野郵便局から徒歩10分